生涯学習愛媛 bS9(平成13年7月発行)

四国遍路のたび(4)


▲青年空海が修行したとされる室戸岬の御蔵洞
   愛媛県生涯学習センターでは、昨年度から3年計画で四国遍路の学術整理事業を行っていますが、このほど、『四国遍路のあゆみ』と題する報告書を作成、出版しました。現代まで脈々と受け継がれ、今なお多くの人々を魅了してやまない四国遍路の歴史について、様々な文献を調査し、整理したものです。これから3回にわたって、この報告書の内容を紹介したいと思いますが、まず第1回目の今回は、四国遍路のおこりについてお話ししましょう。

四国遍路の原形
   今でいう遍路が登場するかなり以前の時代から、「四国の辺地」を廻る(まわる)修行者たちが多数存在していたようです。平安時代前期に登場した空海もその一人であったと考えられ、空海自身が著した『三教指帰』(さんごうしいき)には、石鎚山、室戸岬、あるいは太龍寺山(徳島県)で修行を行ったという記述が見られます。修行者たちを四国へと駆り立てた信仰的要素としては、石鎚山に代表される山岳信仰、足摺岬・室戸岬に代表される海洋信仰などがあげられるでしょう。
   その後しだいに四国に弘法大師(空海)信仰が浸透していきますが、その際に大きな役割を果たしたものの一つに高野聖(こうやひじり)の活動があげられます。彼らは、空海が開いた高野山を拠点に全国を廻り、高野山への勧進(寄附)をすすめ、弘法大師への信仰を民衆に説きました。空海が誕生し修行を行った四国の地は、特に大師信仰を受け入れる要素が強く、古来からの霊場の多くが徐々に弘法大師とのかかわりを深めていったのでしょう。ちなみに、空也・西行・一遍(愛媛県出身)といった有名な僧侶たちも四国の霊場を訪れています。

四国遍路の成立
 それでは、弘法大師ゆかりとされる四国の霊場を巡る遍路の形態はいつごろから始まったのでしょうか。遍路の開祖としての右衛門三郎(えもんさぶろう)の伝承( 「四国遍路のたび(3)」 を参照)は有名ですが、歴史的事実とは思われません。「へんろ」の語句が見られる古い例としては、八十番札所国分寺(香川県)本堂の永正10年(1513年)の落書に見える「四国中辺路」や、同じく四十九番札所浄土寺(愛媛県)厨子(ずし)〔仏像を安置する容器〕の大永5年(1525年)の落書に見える「辺路」があげられ、これらはいずれも室町時代後期と考えられます。このころ、すでに全国各地から「へんろ」として巡礼者が四国を訪れていたことがわかるのです。
 ただ、現在のような八十八ヶ所の札所がすでに当時あったかというと、疑問の残るところです。 いつどんな理由で八十八ヶ所が確定したのか、あるいは八十八という数字に何らかの意味があるのか、様々な学説が出されているものの決め手には欠けます。これらの点についての解明は、今後の研究を待たなければなりません。


▲高野山奥の院の弘法大使御廟

−目次へ− −前へ− −次へ−