データベース『えひめの記憶』
宇和海と生活文化(平成4年度)
(1)伝説と動物たち②
⑦ ばとうかんおん、ばとうかんをんと馬の碑
ばとうかんおん・ばとうかんをんは、鹿地蔵のある三崎伝宗寺脇にある。左にばとうかんおん・右にばとうかんをんの文字をそれぞれ刻んだ、高さ25cm位の小さい石碑である。
ばとうかんおんの文字からすると「馬頭観音」として建てたものではなかろうか(写真3-1-12参照)。
馬の碑は三崎町名取の神社下の墓地内に高さ20cm位のカマボコ型の石に浮き彫りになっているが、文字など不明である(写真3-1-13参照)。
⑧ なで牛と子牛像
なで牛は三崎町釜木の天満神社境内に、大きな台石上に立体座像で建立されている。大きな台座には奉献と刻まれているだけで、ほかのことは不明である。天満神社には菅原道真公がまつられていることから、そのシンボルの牛であろう(写真3-1-14参照)。
子牛像は三崎町二名津の神社の境内に、小さい角をもつ、体長約70cmの立体座像で、明治29年(1896年)建立・石工の氏名など刻まれている(写真3-1-15参照)。
⑨ 鯨塚と亀塚
鯨塚と亀塚が瀬戸町三机の須賀の八幡神社参道に、地蔵様をはさみ左右に並んでいる。
文化6年(1809年)にイワシの大群を追って鯨が三机湾に入り、出られなくなった。漁師達は救ってやろうと努力するが及ばず、ついに鯨を殺したが、血液の暖かい動物(温血動物)であることを知り、そのたたりをおそれて丁寧に供養して建てたのが鯨塚である(⑨)。
正面には「妙鯨之位」とあり、その上に判読できない一文字がある。また側面には「三机所中」とある。
亀の碑は亀の形をした自然石の上に「亀大明神」と刻んだ石碑がのせてある(写真3-1-16参照)。
⑩ 子持岩の鯨塚
明浜町宮野浦港に入ってくる帆船を、親鯨と間違えてついて来た子鯨である。船腹に身をすりよせているのを見つけ、生け捕りにしようと、ロープを使って悪戦苦闘の綱引きのすえ捕えた(⑩)。
しかし、宮野浦の人達は鯨を憐れんで「吊(とむらう)大魚之霊」明治40年(1837年)3月13日と刻み、鯨の霊をまつったと伝えられている(写真3-1-17参照)。
⑪ イヌカンオン・ネコ観世音と牛の碑
瀬戸町川之浜の八多喜寺境内の岩陰にある。高さ約40cmの石で、「バトウカンオン」の文字を中央に、右に「イヌカンオン」左に「ネコ観世音」の文字が明瞭に刻まれており、しかもほとんどが片仮名である点が珍しい(写真3-1-18参照)。
牛の碑は、大正9年(1920年)の火災によって、焼死した牛の供養とのことである(写真3-1-19参照)。
この地域では動物を非常に可愛がり、牛・猫の死んだときは、浜を深々と掘って埋める風習があったことを考えると、イヌやネコの碑もやはり供養のためと思われる(⑧)。
⑫ 碆(はや)の手の鯨塚
丸石網代に大型寄鯨があったのは天保8年(1837年)7月23日である。「この年は大飢饉であったが、この寄鯨で餓死をまぬがれた。」との記録があり、村人は鯨様と呼び親しみ、あがめて供養を続けてきた。戒名は「鱗王院殿法界全果大居士」でお殿様級である。高山の金剛寺には、鯨様の過去帳、位牌、クリダシがあり戒名ともどもに全国でも珍しいと言われている(⑩)。高さ約140cm・幅25cm程の立派な石碑である(写真3-1-20参照)。
⑬ 楠ノ浦の鯨塚
明浜町俵津湾で明治3年(1870年)捕獲された鯨の塚であろうと言われている。以前は少し下方の浜辺に祭っていたが、現在地に移った。高さ約130cm・幅25cmの石碑には、「嗚呼大鱗鯨子墓」とあり、その上に梵字(ぼんじ)であろう、一字が刻まれている。
「明治3年(1870年)・組中建之」と記してあるが、ほかのことは不明である(写真3-1-21参照)。
われわれの祖先が、豊かな自然のなかには神や仏があると思い、同時に海や山に住む動物や植物にも精霊の宿ることを信じた。ここに登場した数多い動物の石像には、地域に住む人達の信仰と温情がともに刻まれているように思う。
写真3-1-12 ばとうかんおん・ばとうかんをん 平成4年10月撮影 |
写真3-1-13 馬の碑 平成4年10月撮影 |
写真3-1-14 釜木のなで牛 平成4年10月撮影 |
写真3-1-15 二名津の子牛像 平成4年11月撮影 |
写真3-1-16 鯨塚と亀塚 右から亀塚・地蔵様・鯨塚。平成4年8月撮影 |
写真3-1-17 子持岩の鯨塚 平成4年11月撮影 |
写真3-1-18 イヌカンオン・ネコ観世音 平成4年10月撮影 |
写真3-1-19 牛の碑 平成4年10月撮影 |
写真3-1-20 碆の手の鯨塚 平成4年11月撮影 |
写真3-1-21 楠ノ浦の鯨塚 平成4年11月撮影 |