データベース『えひめの記憶』
河川流域の生活文化(平成6年度)
(3)子供たちを川に親しませる取り組み
**さん(大洲市五郎 昭和11年生まれ 58歳)
**さん(大洲市菅田町 昭和22年生まれ 47歳)
**さん(大洲市中村 昭和6年生まれ 63歳)
大洲市立博物館では、市内の小学校5、6年生を対象に、7年前(昭和62年)から自然科学教室を開催している(口絵参照)。今年度(平成6年度)は、「肱川水系の地質と生物」をメインテーマにしており、7月26日は、会を重ねて54回目となるはずであった。当日のテーマは「肱川の水生生物の観察」で、新冨士(とみす)橋下の河原で野外観察会が予定されていたが、前日までの大雨で川が増水し、中止となってしまったのである。
皮肉にも当日は快晴であった。約束の午前8時に、河原に到着したが、だれもいない。近くの公衆電話から、博物館に連絡を取ろうとしたが、何度かけても話し中である。しばらくすると、博物館の学芸員の方が、車で迎えに来てくれた。「お待たせしてすみません。子供たちに、中止の電話連絡をしてたんです。かけていただいても通じないと思って、やってきました。」
博物館に着くと、当初から自然科学教室の指導に当たっている、新谷小学校校長の**さんと喜多小学校教頭の**さんが、待っていてくれた。
ア 自然科学教室
** 今から7年前に、県の博物館から、「市立博物館のある大洲でも、自然科学教室をやれるようにして欲しい。」という
依頼がありまして、長年、待ちに待っておったことでしたので、受けて立とうということになりました。
初めは、市内の子供たちを40名くらい集めて、肱川にかかわったものを中心として、毎月、自然観察をしていまし
た。それが今まで続いて、今日のが54回目になるはずだったんですが、急きょ、中止になったわけです。川は、思うよ
うにならん時もあります。
指導するのは市内の教員で、全部でちょうど10名おります。母体となっておる「理科同好会」は、昭和36年ころに結
成して活動していましたが、この自然科学教室に合わせて、改めて、メンバーにやり手・若手のニューフェイスを揃えた
ということです。
** 募集は、自主的な参加希望の応募によっています。初めは、参加希望をとったら、理科にわりと関心のある子供たちを
中心に、100名以上というものすごい数が集まったんですね。しかし、それでは動きが取れないから、バス1台に納まる
人数ということで、50名にしまして、それ以上はちょっとお断りするような状態です。親も待ちよりますから、年度初
めの募集案内がちょっと遅れたりすると、すぐに「今年はないんですか?」という話が出てきて、「いや、あるんじゃけ
ど、ちょっと待ってくれ。」という調子です。
子供たちが喜んで参加してくれることが、何よりも楽しいですね。それと、我々自身も、いろんな自然を介して人間関
係も深まっていきますし、外を歩く楽しみ、自然に触れる楽しみというものが、できてきたんじゃないかと思います。普
通の子供、理科嫌いの自然離れした子供たちというのも、食わず嫌いと言いますか、実際は、やってないからおもしろさ
がわからないんです。だから、もっともっと刺激を与えてやれば、自然を好きになるという子はなんぼでもおるんじゃな
いかと思いますね。
運営は、博物館が主体となってやってくれています。我々「理科同好会」は、講師として指導するということで、資料
の準備や下調べなどをしています。
** 今は、フィールドをやる先生が非常に少ないんです。こないだも教員の自然観察会をやりましたけど、体験をしていな
い。子供の場合は、「これは、食えるんぞ。」じゃの言うたら、すぐにむしって食べるんですけど、大人の場合は、じ
いっと聞いとるだけなんですわ。「自分で取ってみなさいよ。」って言ってるんですが、結局こちらが取って持っていか
ないと、自分から積極的には動かない。子供ごろの体験がないから、「ちょっと中へ入ったらこわい。」と言って、自然
への仲間入りができん。
だから、「理科同好会」のメンバーの若い先生方が中心になって、頑張って欲しいと期待しているんです。なかなか日
が取りにくいが、日曜を返上して、現地の下見を欠かさず、事前に資料を作るようにしておるんです。
イ 自然体験の思い出
** 終戦直後じゃったろと思うんですが、「でん粉を取るんで、ヒガンバナの球根を集めて欲しい。集めたらドッジボール
をもらえる。」というて、業者が来ましてね。ドッジボールは、小学校に1個かありませんでしたから。子供たちが、ヒ
ガンバナの根を取ってきてね。ヒガンバナいうのは、とかく畑の畝(うね)のところにあるんですね。「畑くずした。」
じゃのいうて、いろいろ怒られたこともありましたけど、そういうように汗水たらしてもらったボールでしたから、すご
く大事にしてね。
まあ、わら草履(ぞうり)で行きよったころですから、外へ出たら、ドッジボールも裸足(はだし)でやりよりました。泳
ぐんでも、パンツないときは、女子らもふりちんで、私らもそのままで、女じゃの男じゃのいう意識はなかったように思
います。みんなが非常に自然でしたよね。自然というのは、やっぱりそういうところから、学んだように思いますよ。
過ぎ去ったことじゃから、いいもんぎりが残っとるかもしれんけど、あの時代はよかった。それぃ戻すということは難
しいですけれども、考え方というのは大事にせないけんのやないでしょうかねえ。
** わたしたちが子供のころは、川と山しか遊び場がなかったもんですからね、夏は、朝から晩まで川に入りびたっておっ
たです。増水したときに魚釣りに行って危なかったとか、溺(おぼ)れかかったこともありましたけど、それは体験とし
て、今の生活にも生きてきております。「あっ、こんな所へ行ったら危ないぞ。」「ここは大丈夫だ。」というのがわか
る。今の子供はそういう体験がないから、危ないとこでも平気で行ってしまう。だから、危ない体験というのも必ずして
おく必要があると思うんですがねえ。
テナガエビを取るときは、ミミズを輪にしてエサにして。上から見ながら「あそこにおるぞ。」と見付けると、前にエ
サ、後ろにサデ(小さなすくい網)、後ろにピンと跳ねますから、すぐ上げる。カ二釣りは、網を輪っかにして、イワシ
の頭をくっつけて沈めて、力二がコツコツと寄ってきたところを見計らって、上げてみる。そういうことが、今はできま
せんからね。
お盆まんま(盆飯(ぼんめし))は、子供同士が集まって河原で炊(た)きよった。川の水使って、あの時だけ火を使うの
を親から許してもらうんです。前の日に行って、小屋作りから始まる。もちろん、年上の子もたくさん来てる。だから、
自然にいろいろ教えてくれる。大人がかかわらなくても、ちゃんと子供同士で、ず一っと代々、年長者から受け継いでき
たですね。こういう風に受け継いできたのは、わたしたちの年代が、もう最後くらいじゃないでしょうか。
** 大人に怒られた記憶はありますよ。戦争中で、サーベルぶらさげとる警察の人に、まだ泳がれんころに、上から怒り飛
ばしてもらって、あわてて出たりね。
あのころは、親がある程度は知らん顔しとるんですわ。で、子供に好きなことやらしてる。だけど、危ないと思た時に
は、だれということなしに「危ないぞ!」という。子供に対する大人の関心が、非常に深くてね。
成りものでも、そこで取って食べるくらいは何も言わんかった。カキ、ビワ、クワの実なんかも、学校の帰りの子供
ら、取って食べましたがね。食うもんがないんですから、ハッハッハッ。今取りよったら、すぐに学校の方へ電話がか
かってきます。
今は、悪い意味で、子供に関心がありすぎるんですよね。こないだも、ハチに刺された子がおりましたけど、「ハチ
は、すぐ取っといてくれ。」という電話。どこにおるハチやらわからんのに、どうもならんでしょう。講師の先生が、危
のうないとこを事前に調べとって、子供らを藪(やぶ)の中に連れて行くんですよ。そうすると、「ハメ(マムシ)がおる
けん、あんまり藪の所には連れて行ったらいけん。」と、すぐ電話がかかってくる。
親自身が自然体験をしてない、遊んでないですけんね。遊んでないというのが、やっぱりいかん。「虫にも刺されん、
蚊もおらん、そういう完璧な所で子供を育ててもらわにゃ困る。」という考え方があるような気がしますね。
人間が自然から隔離してしもうて、その中で育っとる。だから、子供は自然体験が非常に薄い。子供らはウルシでもハ
ゼでも遠慮なしに取りますよ。知らぬが仏というのか、結局、勇気があるんじゃなくてこわいもんがわからんから、ハゼ
の木をがっしり折って「先生、これ何ですか?」って持ってくる。「これはまけるぞ。」と思て、あとで聞いてみたら、
やっぱり次の日に、かぶれがいっぱい出たという。いっぺんまけとったら、これは腫(は)れるやつやなあいうて、わかり
ますから。そういう意味では、この自然科学教室というのは、「体験させる」方向で、やらしとりますけど。
ま、けがしたらいけんのはわかるけども、多少のすり傷やなんかはねえ。ハチにも刺されるし、アリにも食われる。こ
れが自然なんですよ。痛いということも体験としては大事なんですよ。
ウ 肱川の自然と共に生きる感性を
** 子供たちが喜んでくれることが第一ですね。テレビ見たりゲームをしたりするよりは、自然というものがおもしろいも
んだなあということを、感じさせたいですねえ。それと自分自身も気付かなかったことが、わかってくる楽しみもありま
す。
肱川は、かなり変わっておるというのが実感です。昔は、竹藪(やぶ)がずっと続いていて、その下に淵があったり瀬が
あったり、まあ変化に富んでおったわけですけれども。最近は、非常にノッペリして自然が単調な川になってしまったな
あという気がしますね。
肱川は、子供のころからずっと生活を楽しくしてくれたもの、そして、大洲の誇りですから、そうした自然との接し方
を、次の世代に引き継いでいきたいですね。
** 人間も、自然の一員だということですね。わたしらが子供ごろは、いやおうなしに自然と共に生きていく関係にあった
と思うんです。今は、人間が自然に挑戦していくという考え方が強いようですが、子供たちにも、「人間もやはり自然の
中に生きているんだ、自然の一部なんだ。」ということを、感じ取らせたいですね。まわりを見たときに、すべて自分の
思いどおりになる自然が存在しているんだという考え方を育ててはいけない。
ハメは毒を持っとるし、噛(か)まれたら大変なんだけれども、「君らでも、足を踏まれたら怒るだろう。ハメも、踏ま
れた時に食いつくんで、踏まずにそーっとしとれば、逃げるんだよ。」という見方ができて、それぞれが、自然の大きな
サイクルの中で存在していることを知る。その積み上げによって、一輪の花も感動を持って見ることができるし、「あ
ら、おかしい。」という疑問を持つこともできる。科学の世界には、それが必要なので、そういう子供になってほしいと
いう期待はありますね。
同じ花が咲いとっても、「あ、きれいだな。」と感動する子と、花があろうが虫がおろうが、関係なく通り過ぎていく
子とでは、生涯を考えたら、その豊かさというのは全然違(ちご)うてくる。
肱川のイメージは、豊かさかな。どんなに渇水のときでも、水が流れておる。気分がくさくさしよっても、あの大きな
川があることで、落ち着いてくる。肱川をのけたら、大洲は考えられない。この肱川というのを、もっともっと大事に。
自然を踏み台にして、ふるさとのよさを生かせる子供たちが、20年後くらいに育つことを大いに期待しながら、皆必死
でやりよります。まだ、結論は出ませんけれども。
エ 企画した博物館長の思い
大阪で生まれ育ったという**さんに、自然科学教室への思いなどを伺った。
「先祖の里が内子で呉服屋をしよったので、終戦間際(15歳の時)に疎開してきた。最初の印象は、山や川がやっぱりきれいだということだった。大洲に来ると、もう戦争の感じを受けなかったですわ。防空壕(ごう)がないでしょ。川には魚がいっぱい泳いどるしね。もう、よだれ出そうなねえ。大阪のほうは、食糧難で大変な時期でしたからねえ。こっちは食糧不足をあんまり感じなんだですねえ。
今にして思うと、大阪と大洲、やっぱこっちの方がよかったですね。元は、彫刻・工芸をやっとりましたから、こういう所に来たら、美的なものに接する場が多いでしよ。僕にとっては、環境は最高ですよ。僕は長男で、あとの兄弟は皆向こう(大阪)でしよ。『兄さん、ええとこ住んどる。緑の豊かな山あり、川あり、海も近いし。』言うて、さいさい遊びに来ますがね。
大阪育ちの自分にとっては、自然と接するのが、非常にうれしい。肱川も、本流よりは支流に変化があるから、親しみを持った。生徒はもちろん、自分の子供も、渓流釣りなんかにもよく行った。河原は草ぼうぼうで、起伏があって、ヒバリはおるし、動植物が生息して、豊かだし。子供らは1日じゅう河原で遊びよりました。『おーい』言うたって、なかなか首出さん。トンボでも、バッタでも、行きさえしたらなんぼでもおったから、子供ら、ほとんど河原で遊びよった。
それが、あまり親しまなくなった理由は、一つは農薬、もう一つはダムができた前後に漁業権というのが強調されたことですかな。魚釣る者は、鑑札を取れ、投げ網はなんぼというてね。わたしも生徒指導を長年やっていたけん、その鑑札を生徒に世話をするということで、期日も○月○日から○月○日まで、ああいう取り方したらいけん言うて、自然発生的なものも禁止することもした。子供らのおおらかさを規制してしもた。
昭和40年代ころ、夏休み前なんかは、夏休みの注意いうんで、許可なしに泳いだらいけんとか、どこそこ以外で泳いだらいけんとか、魚もこういう取り方以外はいけんとか、生徒に注意するために、僕も図面を書いてやったことがあるんです。
盆飯も、禁止になったんよなあ。五郎の下へ止めに行かされたことがあってなあ。一時、防犯の標語で『いい子は川では遊ばない』というのがあったが、あれだけはよう忘れん。今、大人になった連中は、盆飯がどっち向いとるやら、わからない。
ああいうふうに規制してしまったらね、『そんなに怒られてまでは。』という風潮が全般に広がって、もう子供らは寄り付かんようになってしもた。
御祓(みそぎ)という小学校(喜多郡五十崎町)に校長になって行ったときは、わたしの責任で何かやったろうという思いでね。あのあたりだったら川の水もきれいですけんね。前日、河原のカーブの所をPTAに言うてならしてもらってね、親子炊飯。魚釣りも親子でしてね、帰ってから運動場へ、バケツや魚籠(びく)の中からみな出し合って、一番大きいのと一番小さいのに賞を出してね。1日楽しんで、よいよ(とっても)、子供らにも満足感を与えられて、親御さんも喜んで、朝から付きっきりでね。
定年退職後、こちらの市立博物館に勤めるようになりました。博物館では、実際に体験することが、非常に大事じゃと思います。肱川はどんな川かということも、可能な限り、夏場だけでも水の中に入っていってね。
また、ケースの中の展示品も、ただ見るのではなく、それがどうやって使われておったのかを、できたら、使ってみて作るところまでもっていかんと、博物館の値打ちはない。地方の博物館だからこそ、『さわられません』ではなく、『実際に触れてみよう』というのができると思う。
博物館に『ビンヅケ』という漁具があるんです。電気(電灯)の傘みたいな形をしとって、『これ、何ですか。』と聞くから、説明して、『何か取れるか実験してみなはいや。割れたら割れたでかまんけん。弁償せい言わんけん。』言うてね。
そういう考えで、川へどんどん子供たちを連れていきたいということで、今年度からは、歴史文化教室も作ったんです。川にまつわる歴史や文化というのも、大洲市は多いでしょう。川とは切り離せないものばかり。今年は『明かりの文化』をテーマに、最後はまわりどうろうを作る。来年、さ来年は、筏(いかだ)の模型、浮亀(うきき)橋(舟を横に並べたもの)の設計図が残っとるんで、6年生あたりに共同製作で作らせてみようか、洪水の時はどうしよったか、綱をつないだ木の根っこ(現存)を現地へ見に行ったり、とかね。
どこから予算をとってくるかが、一番苦労しますねえ。普通の講座の予算は、20万円(年額)なんですが、この自然科学教室は80万円。ほかの事業に比べて、断トツです。青少年の育成に力をいれている財団からの補助が60万円あるので、どうにかやっていけるんです。それと、野外活動の場合は、天候の影響で、今日みたいに急きょ中止ということもありますので、必ず裏番組を用意しておくようにしないとね。
『将来こうしたいという夢は、①記録を積み上げて冊子の形で残す、②現状はバス1台分の定員だが、会員を増やして2台にしたい、③親子研修ができる場を設けて、親御さんがいっしょに学ぶ姿勢を、子供に見せたい、④親も自然離れ世代、童心に帰るような親だけの研修もしたい。』と、夢はふくらむが、指導員の確保がこれからの課題です。
両岸に自然の土手があって、いろんな生物がおったのが、今は締め出されてしもうた。自然科学教室でも子供たちを『自然の河原』に連れていくけど、中には『ここはいも炊き場じゃ。』という感覚の子供もいる。日本独自の河原のお陰で、日本の文化が育まれてきた。そのきれいな河原を、今は4WD(四輪駆動車)が荒らしている。締め出した杭まで倒している。こんな状態では、この肱川がいつか大きな下水にならんとも限らん。ふたをしてしもうて、鵜(う)飼いも下水でするようになって、『昔は川じゃった。』なんていうふうになったら恐ろしい。
いつも思うのは、山並みがゆったりとしとるでしよ。川の流れがまた南画(主に山水を描いた水墨画)的で、蛇行して、ゆっくりしとる。だからね、そういう自然の中で育ってきとる大洲の人は、ゆっくりしとる。激しさいうものがない。その上に霧があるから、まあまあまあとなる。その分、人情豊か。豊かな生態系と一緒に、地形も精神文化的にゆっくりした肱川。この博物館に勤めてから、さらにそれを思う。この豊かですばらしい精神文化を、継承していかないかん。川でも残っていくもの、長所として栄えるものと、消えていくものがある。消えるスピードは速い。そのための資料をしっかりここへためてという気持ちでいっぱい。肱川をのけては、大洲の歴史を取り出せない。
平凡ですけど、『大洲はええなあ、母なる肱川、大洲は肱川が育ててくれとる。』という意識を持ってもらったら、自然に肱川を大事にしていくと思うんだが。」